2008年02月18日
関西からとんぼ帰り
仕事の都合もあり、
今日、大阪の曽根で19時に行われる通夜には
参列することが出来ないので、
とりあえず義兄の博さんと義兄の兄・久夫さん、
そして辰野のお母さんにどうしても挨拶がしたく、
大阪に向け新幹線に乗った。
オヤジが交通事故で突然亡くなった時、
俺はトーナメント出場の為にスイスに滞在しており、
葬式等の手配をしてくれたのは、
博兄さんと久夫兄さんであった。
俺は、今回も何も手伝うことさえも出来なかったが、
せめて気持ちだけでも・・・!と思った。
彼等に顔を見せて、
せめてお悔やみの言葉をかけたいだけだ。
何とか、30分位しゃべれたであろうか。
辰野のお母様はしっかりされており、
ちょっと安心したが、
博さん、久夫さんはげっそりされていた。
亡くなられた、辰野忠治お父様は、すでに92歳であった。
大往生だが、やはり亡くなられたことが
寂しく辛いんだろうと思う。
17時25分の伊丹発の飛行機に乗り、東京へ戻った。
20時から何事もなかったように、レッスンが始まった。
今日、大阪の曽根で19時に行われる通夜には
参列することが出来ないので、
とりあえず義兄の博さんと義兄の兄・久夫さん、
そして辰野のお母さんにどうしても挨拶がしたく、
大阪に向け新幹線に乗った。
オヤジが交通事故で突然亡くなった時、
俺はトーナメント出場の為にスイスに滞在しており、
葬式等の手配をしてくれたのは、
博兄さんと久夫兄さんであった。
俺は、今回も何も手伝うことさえも出来なかったが、
せめて気持ちだけでも・・・!と思った。
彼等に顔を見せて、
せめてお悔やみの言葉をかけたいだけだ。
何とか、30分位しゃべれたであろうか。
辰野のお母様はしっかりされており、
ちょっと安心したが、
博さん、久夫さんはげっそりされていた。
亡くなられた、辰野忠治お父様は、すでに92歳であった。
大往生だが、やはり亡くなられたことが
寂しく辛いんだろうと思う。
17時25分の伊丹発の飛行機に乗り、東京へ戻った。
20時から何事もなかったように、レッスンが始まった。